俺が故郷の秋田で暮らしていたのは高校を卒業するまでの18歳までである。。。
生意気盛りの中学と高校は、学校から帰ると飯を食べ部屋に篭った。
俺の母は、長女で、その下には多くの妹や弟が居た。
特に妹連中は、俺が小学校以下の年だった時は家に頻繁に遊びに来た。
お菓子を持参してくるので、俺も好きだった。
そんな記憶は残っている。。。
が!具体的に何をして遊んだのか??
今は、何にも記憶が無いのだ。
小学校1年生の時の担当の先生の名前や顔など記憶にない。
20代の頃は、覚えていたのかもしれないが、50代の今。。。
思い出そうと思っても何も出てこない。
更に!
当時の近所には、同じような糞ガキ連中が多く住んでいて、外で遊ぶ機会が多かった。
誰もが、どこどこの何とかチャンと言えば、直ぐに誰であるか判る時代だった。
だけど、今となっては何とかのお母さんの顔は??
全く覚えていないのだ。
ところが!
葬式の受付をしている様子を眺めて、次々にやって来る方々の記帳する内容で、近所に住んでいた?いる?人であると思い、一人一人に声を掛けると。。。
俺の顔見て。。。
ポケ~??
俺も顔見て!
あーーーーー!
思い出した!
”しゅんです”
と言うと、暫くして。。。
えーーーーーーー?
それが、母の妹連中もそうなのだ。
それもそうであるのだ。
殆どの人とは40年近く振りの再会なのだ。
全員がお爺ちゃんお婆ちゃんになっていた。
葬儀も終了して、まぁ!一杯とテーブルを周ると懐かしい顔ばかり。
そこでの、昔話は、俺が生まれてから小学校位までの話し。
殆どが記憶に残っていないが、状況や背景などを聞くと。。。
そんな事もあったけなぁ~
俺も懐かしいけど、相手も懐かしくしてくれるので、1テーブルに掛る時間が凄いのだ。
親父のお陰で、俺が糞ガキだった頃の事の話を聞けた。
学校から帰ってきたら、玄関にカバンを放り投げて外で遊ぶガキだった。
それは覚えているが、誰と何をして遊んだか??
三角ベースの野球。。。
それ以外は知らなかったが、糞ガキの全貌が??
明らかになって楽しい酒だった。
そして最終日。。。
お寺へと行った。
秋田市内には”寺町”と言われる地域があり、小さい寺が集まっている。
その一ヶ所に、新しく島崎家の墓を作るのだ。
親戚には石屋も居て、これからゆっくり、その話もする事になる。
そのアドバイスから納骨は来年のお盆にしましょうと。。。
秋田の春は遅いからと。。。
それまで、父の遺骨は、この寺に預かって貰う事で、母と兄と、近所に住む母の妹とやって来た。
もしかすると、俺も此処に入るかも。。。
そんな事も思った。
そんじゃ!
俺はタイへ戻るからな!
達者でな!
そう言って空港へ向かいました。
来年はお盆に帰ります!!
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生意気盛りの中学と高校は、学校から帰ると飯を食べ部屋に篭った。
俺の母は、長女で、その下には多くの妹や弟が居た。
特に妹連中は、俺が小学校以下の年だった時は家に頻繁に遊びに来た。
お菓子を持参してくるので、俺も好きだった。
そんな記憶は残っている。。。
が!具体的に何をして遊んだのか??
今は、何にも記憶が無いのだ。
小学校1年生の時の担当の先生の名前や顔など記憶にない。
20代の頃は、覚えていたのかもしれないが、50代の今。。。
思い出そうと思っても何も出てこない。
更に!
当時の近所には、同じような糞ガキ連中が多く住んでいて、外で遊ぶ機会が多かった。
誰もが、どこどこの何とかチャンと言えば、直ぐに誰であるか判る時代だった。
だけど、今となっては何とかのお母さんの顔は??
全く覚えていないのだ。
ところが!
葬式の受付をしている様子を眺めて、次々にやって来る方々の記帳する内容で、近所に住んでいた?いる?人であると思い、一人一人に声を掛けると。。。
俺の顔見て。。。
ポケ~??
俺も顔見て!
あーーーーー!
思い出した!
”しゅんです”
と言うと、暫くして。。。
えーーーーーーー?
それが、母の妹連中もそうなのだ。
それもそうであるのだ。
殆どの人とは40年近く振りの再会なのだ。
全員がお爺ちゃんお婆ちゃんになっていた。
葬儀も終了して、まぁ!一杯とテーブルを周ると懐かしい顔ばかり。
そこでの、昔話は、俺が生まれてから小学校位までの話し。
殆どが記憶に残っていないが、状況や背景などを聞くと。。。
そんな事もあったけなぁ~
俺も懐かしいけど、相手も懐かしくしてくれるので、1テーブルに掛る時間が凄いのだ。
親父のお陰で、俺が糞ガキだった頃の事の話を聞けた。
学校から帰ってきたら、玄関にカバンを放り投げて外で遊ぶガキだった。
それは覚えているが、誰と何をして遊んだか??
三角ベースの野球。。。
それ以外は知らなかったが、糞ガキの全貌が??
明らかになって楽しい酒だった。
そして最終日。。。
お寺へと行った。
秋田市内には”寺町”と言われる地域があり、小さい寺が集まっている。
その一ヶ所に、新しく島崎家の墓を作るのだ。
親戚には石屋も居て、これからゆっくり、その話もする事になる。
そのアドバイスから納骨は来年のお盆にしましょうと。。。
秋田の春は遅いからと。。。
それまで、父の遺骨は、この寺に預かって貰う事で、母と兄と、近所に住む母の妹とやって来た。
もしかすると、俺も此処に入るかも。。。
そんな事も思った。
そんじゃ!
俺はタイへ戻るからな!
達者でな!
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コメント
コメント一覧 (16)
次は、来年のお盆、その時は暑いでしょうね。
年が行って来ると、オジサン、オバサン達も死に絶えて・・
次の順序の人達が、来るんですよね。
ふゆの秋田
大変だったですね
でも大勢のひとたちにお会いできよかった
タイで子孫をのこすこと、考えてください!
先日から整理をしていたら親父の米寿のビデオがでてきました。
みんな元気なときのことが見れました。
なつかしいものです。
生あるものは子孫を残すためにうまれたんだとおもうように思うようになりました。
今年、僕も夫婦二人の両親4人の内、最後まで存命であった家内の母を94歳で見送りました。
親の見送りは悲しいものです。
しかし、別の考え方もあります。
僕は、「法事は生きている人のためでもある」という考え方が出来るようになっています。
今日の内容を読みヤット投稿する気持ちになれました。
親戚、知人との何十年振りの再開などを演出する葬儀、法事は、生きている方々のためでもあります。
家内の母の葬儀の際、ご住職も次のような事を言っていました。
「祭壇にある写真も花も全部参列している皆さんを向いています。
これは皆さんの為でもあります。故人を偲び、感謝しながらこれから生活して行くのです。」
コメント有難うございます。
お盆は暑いでしょうね。
恐らく、新居も未完成と思います。
また、疲労困憊の旅となりそうです。
それまで、皆が健康で有ればよいと思います。
コメント有難うございます。
タイで子孫ですか。。。
その辺の行動は全くです。
特に今年の中盤以降は何かと忙しく、結末はこんな事になりました。
来年に掛けましょう!
本ブログを感慨深く読ませて頂きました。
しゅんさんの今回の一時帰国(父上様の葬式の為)。
親戚の方々と、約40年ぶりに再会され、思い出話に花が咲いたようですね。
それが出来たのも、父上様のお陰とは、何とも感慨深いモノがありますね。
考えてみれば、昔からの親戚の人達と会うのは、冠婚葬祭時の時だけですね。
私も、親戚の人達と会ったのは、30年ほど前の叔父の葬式、26年前の父の葬式の時です。
以来、親戚の人達とは、私がタイに来たせいもあり、全く、会っていません。
本ブログにより、昔のこと(親戚の人達の顔など)を思い出すことができました。ありがとうございました。
コメント有難うございます。
ご住職の言葉は胸に沁みます。
そう思って、これから生きて行かなければなりませんね。
私は、久しぶりに再会した方々から勇気のようなものを頂きました。
父も昔は必死に社会と闘っていたのだ。
私も負けずに頑張ると感じました。
コメント有難うございます。
葬式には多くの方々が来て頂きました。
なにせ、私が顔を覚えてはいませんが、苗字などを見れば、近所の方だとかを想い出すんです。
そこで、話の花が咲くんです。
しゅんちゃんもオヤジになったねぇ~
そんな話で盛り上がりました。
本当に懐かしく楽しかったです。
お悲しみのこととお察しいたします。
ただ大変なのは、その後です。保険をかけていたっけとか、銀行が止められたんだけどとか、株券の通知が来たから株が有ったらしい。。。
全部一人では出来なくて、兄弟全部の戸籍謄本と相続放棄同意書が必要なので手紙ではダメだったので何回か帰りました。
私が死んだら海に散骨して欲しいと言ってるけど、日本の法律ではダメかな。
コメント有難うございます。
ご指摘の通りです。
生前に何もしていなかったので、何がどうなのかを調べることから始まっています。
結局、遺産相続の関係から私の印鑑証明も取得しました。
生命保険とかもあるそうです。
全部、兄に任せました。
お前はゼロと言われても言い訳できません。
先日の休止と思わせるブログ記事で、同年代のしゅん様の事、「もしや」とは思うものの、経過を見守るほかはありませんでした。
私も13年前に実の母親を亡くしました。その喪失感は、言葉では上手く表現は出来ません。生きているときは、口うるさく、自らをして、邪険に扱った母親ではありましたが、亡くしてからと言うもの、何故か、嫌な思い出(子供心ですが)は一切思い起こさず、慈しんでもらった事しか思い出せません。そして今でも、時として夢の中で出てきてくれ、私の安心感・至福感を与えてくれるかけがえのない存在として私の中で生き続けています。親とは真に有り難いものであります。幸い、私の父親はまだ元気溌剌、身体頑健なままですので、この場をお借りして、精一杯の父親孝行をさせていただきたいものだな、と、感慨を得た次第です。
お父様の件、御愁傷さまでした。
私の父も3年前に他界いたしました。
外国暮らしの宿命でやはり死に目には会えませんでした。
でも、すぐに帰国できて一晩だけお袋と親父と私の3人で枕を並べて眠ることができたのは幸せでした。
人はいつか必ず旅だっていく。
わかってはいるけど親が亡くなるのは悲しいですね。
バンコクの家の仏壇には親父の骨もまつりました。
親父はこの世にいなくなったけど’、心に中にいつもいますね。
それから私も1年に一回、山梨の実家に帰りますが、毎年、お袋は老い、弟達もすっかりおじさんになっていきます。
自分もきっとそうなのでしょうが、自分ではまだ30才のつもりです。^^;
コメントを有難うございます。
ご丁寧に有難うございます。
息子がブログを開設しているなど判らぬまま他界しましたが、多くの方々にこのようにコメント頂くと、さぞかし喜んでいるのではないかと思います。
私も、葬式では、いつでも夢の中、幽霊でもいいから来てくれと念じました。
親というものは大切ですね。
私の場合は母が健在なので、出来る限り孝行しようと思っております。
コメントを有難うございます。
子供のころは老いるなど想像が出来ませんでしたが、着実に歳は取るものですね。
私の母も80歳を超えましたが、健康への思いは強く、脚は弱りましたがボケも無く健康です。
父が他界した事によって家族とは?生きると言う事は?そんな事を考えました。
2歳年上の兄も白髪が増えました。
三男三女6人兄妹の長女で昭和6年生まれの母。
沢山いた叔母、叔父も数える程に。
母は元気で毎日散歩に出掛けていますが、嫁の
母と共に気掛かりです。嫁が近くに居てくれる
ので任せきり、帰国したら孝行せねば!ですね。
コメント有難うございます。
親戚が多いと、誰が誰繋がりなのかが不明だったりします。
今回は、そんな謎も解けて楽しかったです。
私も母は存命です。
時々、マンゴーを送ってます。
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